はじめまして、タカです。
現在大学二年、歳は二十歳です。
元々私はなんの面白みもない、ただのクソ真面目な人間です。
そもそも、今までの私の人生は、“楽しむもの”ではなく“耐え抜くもの”でした。
小中といじめられ、高校では持ち前のコミュ障を遺憾なく発揮しぼっちとなり、
大学では毎日ゲーム三昧の廃人と化すに至りましたが、
ここで私の生い立ちを話すと無駄に長くなってしまうので、
それはまた別の機会にします。
要するに、今までの私に、生きている価値はありませんでした。
かなり端折りましたが、今回私が言いたいことを一言で表すと、
「生きる価値のない人間は死ぬべきである。」
ということです。
これは別に私が言っていることではなく、
私が今まで社会から言われてきたことであり、
今あなたに突き付けられている言葉でもあります。
いや、だってコミュ障引きニートなんて、普通に考えて、いても邪魔なだけじゃないですか。
というか、はっきり言って本当に邪魔なだけなんですよ、社会にとって。
この就職氷河期に、そんな人間のクズを、わざわざ雇う企業なんてあるわけないじゃないですか。
もし奇跡的に就職できたとしても、真っ先に首にされますよ。
「大学は人生の夏休み、就職までのモラトリアム」
などと言われますが、私自身もその言葉に甘んじ、就活を目前に控えながらも、
現実から目をそむけ、毎日ゲームやネットサーフィンばかりしていました。
就職できなかったら、その時は死ぬしかないと思っていましたが、
ふとしたきっかけで、就職以外で生きていく方法を知ることになりました。
それが、“自分でビジネスを起こす”ということです。
これは、別に何百万も借金して会社を作るということではなく、
ゼロから自分でビジネスを作っていくということです。
起業というと、選ばれた人がやるものであって、私たち社会の邪魔者には縁遠いものと思いがち、というか私自身もそう思っていたのですが、色々と学ぶ内に、今ではこう確信しています。
社会から排除されている社会不適合者だからこそ、起業すべきである、と。
そして、幸いにも今はその環境が整っています。
ご存じの通り、現代はインターネットの普及が進み、日本のネット利用者は一億人を超えています。
数年前ならブログやホームページを作るのにも一苦労でしたが、今は誰にでも容易にそれができるようになりました。
そして、このインターネットを駆使すれば、リアルビジネスのように、
何百万もの資本金がなかろうと、文字通りゼロからビジネスを始めることができます。
私も、まだ数万円程度ですが、実際にネットから収益を出しています。
私たちは、別に誰かに雇われなくても、自立して生きていくことは十分に可能ということです。
「不景気で就職難…どうしてこんなひどい時代に生まれてきてしまったんだろう…」
と、そう嘆く人は多いでしょうが、私はむしろ、この時代に生まれてきたことは幸運であったと思います。
今私たちの前には、就職以外の道が開かれているのです。
しかし、基本的に学校では就職という選択肢しか教えてくれないので、
ビジネス、つまり自分でお金を稼ぐということに関しては何も教えてくれません。
ですから、自分でビジネスを学ぶしかありません。
そして、今回の企画はそのためのものです。
企画の趣旨を簡単に説明すると、
『ビジネスを学び、“誰からも必要とされないゴミ”から、
“誰かに必要とされる人間”に生まれ変ろう』
というものです。
以前の私は誰の役にも立たない無価値な人間でしたが、
ビジネスを学ぶことでお金を稼ぎ、そしてそれをあなたに教えることができます。
企業から、
「あなたはいらないです。」
と言われているんだから、自分で何とかするしかないじゃないですか。
私がいじめられたり、孤独だった時に誰も助けてくれなかったように、
あなたが困っている時に助けてくれる人がいるとは限りません。
この世界には、奇跡も、魔法もない、もっと言うと、神もいない、
この世界で頼りになるのはただ一人、“自分だけ”です。
私は今までの人生で、嫌というほどその事実を実感してきました。
人として自立した生活を送るには、他人や国の支援を当てにするのではなく、
自分でビジネスを学ぶことが一番なんです。
そしてもう一つ、私がこれまでの人生で学んできたことは、
「全ての責任は自分にある」ということです。
今の自分の境遇に不満を持つ人は多いでしょうが、
それは社会のせいでも、周りの人間のせいでもなく、
まぎれもなく、あなた自身の責任です。
私の今までの人生はあまり楽しいものではありませんでしたが、
その全ての責任は自分自身にあると言いきれます。
これからの時代、生きるか死ぬかは私たち自身の責任なんです。
雇ってくれない企業が悪いのではなく、
雇用対策をしない国が悪いのでもなく、
雇われる価値のないあなたが悪いんです。
「人は皆平等である。」
と学校では教えられてきましたが、容姿、学歴、家庭環境、
どれをとっても不平等に決まってるじゃないですか。
しかし、唯一“時間”だけは、誰にでも平等に与えられています。
そして、この時間をどう使うかで、その人の人生が決まります。
だからこそ、その時間を無駄にした人間が無価値な人間になってしまうことは当然のことなのです。
私は二十年間を棒に振りましたが、
ビジネスを学ぶことで、その程度はいくらでも取り戻せると思っています。
さっきから辛辣なことばかり言っていますが、
これは誰より、私自身が無価値な人間であったからです。
無価値な人間は、価値ある人間に生まれ変わるか、
でなければ死ぬべきです。
ビジネスを学べば価値ある人間になれると同時に、
自分の力でお金を稼ぎ、自立した生活を送れるようになります。
現状がどんなに悲惨な負け組だろうと、そんなことは関係ありません。
ほとんどの人間は自分でビジネスを学ぶことなんてまずないし、
インターネットビジネスは時代の最先端です。
これさえ学べば、今日からあなたも勝ち組です。
是非あなたも私と一緒にビジネスを学び、共に新しい人生を始めましょう!
⇒ビジネスを学び、もう一度人生をやり直す
ビジネを学び、もう一度人生をやり直す
いじめられる側に100%の責任がある
こんにちは、タカです。
「自己責任」
私はこの言葉が大好きです。
私は幼いころからいじめられ、友達もあまりできませんでしたが、
それは誰のせいでもなく、私自身の責任だったと言えます。
100%です。
いったいなぜそんな考えに至ったのか、今回はその話をしておきますね。
幼い頃の私は、自分で言うのもなんですが、とても心やさしく、純粋で、まじめで、従順な、いってみれば「いい子」でした。頼まれればなんでも言うことを聞き、暴力を振るったり、他の子の悪口を言うこともありません。
また、決まりごとや約束ごとは決して破りませんでした。
小学校の頃は、
「タカくんはやさしいね。」
と、みんなから言われたものでした(遠い目
しかし、これは、良く言えば「いい子」なのですが、悪く言えば、何をされても反抗できない「弱虫」だったのです。
小学校3年生くらいからだったでしょうか、気付けばいじめられていました。
よく覚えていませんが、始めは机を囲まれ、ひたすら罵られていたと思います。
ここから先はよくあるいじめの話と変わらないのですが、
悪口を言われたり、菌扱いされたり、石をぶつけられたり…
菌扱いされ、私にぶつかった女の子が泣きだすこともありました。
泣きたいのは、こっちの方なのですが…
帰り道では、石や犬の糞を投げつけられ、棒でつつかれ、泣きながら帰ったものです。
なら一人で帰ればいい話なのですが、私の小学校では「下校班」というものが決められており、その子らと帰らねばならず、決まりに従う「まじめでいい子」だった私は、その決まりを守るために、毎日その子らと一緒に帰りました。
「いい子」で「弱虫」な私は、何をされてもやり返せません。
ただ、「やめて…やめてよぉ…」と、
情けなく訴えるばかりです。
図体だけはでかいくせに、度胸は虫よりも小さい…
なんとみじめな…
勿論、先生に助けを求めることもありました。
先生にしかられたいじめっ子たちは頭は下げ、
「ごめんなさい」と、口々に言いました。
私は「いいよ。」と答え、これで仲直りできた、明日からみんなと仲良くできると安堵したのですが…
次の日には、いじめは再開されました。
小中学生の頃は、かなり追いつめられてましたね。
奴らの首を鎌で掻き切って○してやりたい…
奴らの手足をのこぎりで切り落として○したい…
ああやって…こうやって…
文字通り、“○してやりたいほど”憎みました。
奴らを全員○して、その後自分も自○しようか、
あるいは、遺書に奴らの名前を書いて自○しようか、などとも考えました。
(最近アメブロの規制が厳しいようなので、一応伏字にしておきます)
毎日そんなことばかり考えていました。
そんなにつらいなら休めばいいじゃないか、という話なのですが、決まりを破れない「まじめでいい子」だった私は、“学校は休んではいけない”と思っていたので、毎日休まず登校しました。
それだけでなく、“学校を休む”ということは、“いじめに屈する”ということを意味し、
「僕はみんなの言う通り、馬鹿で、アホで、ドジで、気持ち悪くて、どうしようもない変態です。生まれて来てごめんなさい。みんなの貴重な酸素を無駄に吸ってしまってすみませんでした。」
と言っているようなものなのです。
そんな屈辱、耐えられるわけがない。
学校を休むということは、私にとって死を意味しました。
小中高と無遅刻無欠席でしたが、良い思い出は一つもありませんね。
青春とはなんなのでしょうか?
私にはわかりません。
私が“私”という一人称を好んで使うのも、一人称が“僕”だった時期に良い思い出がないから、そしてそんなみじめな自分との決別の意味もあります。
「いじめによる自○事件には、本当に胸が痛みます…」
と、言葉で言うのは簡単ですが、本当にそう思っているのでしょうか。
例えば、テレビのバラエティ番組で芸人がいじられるのを見て、あなたはどう思うでしょうか?
ゲラゲラと腹を抱えて笑うのでしょうか?
そういう番組を見ても、私はどうしても心から笑うことができません。
「いじられて、笑い者にされて、なんてかわいそうなんだろう…」
という思考が頭をよぎります。
普通の人なら、こんな思考にはまず至らないでしょう。
日常の一コマを取っても、これだけ思考に差がでてしまうのです。
まあいじめた方は光の速さで忘れますけどね、なにしろ何も“傷”が残りませんから。
痛みがなければ、当然忘れます。
ですが、いじめられた方はそれこそ一生忘れませんよ。
一度つけられた傷は残り、痛み続けるのです。
いつの間にか、純粋で真っ白だったはずの私の心は、怒りと憎しみで真っ黒に染まってしまいました。
もはや、かつてのような純粋な心は微塵も残っていません。
精神科にお世話になったことはありませんが、よく発狂しなかったと思います。
高校に進学してからはいじめこそなくなりましたが、今度はぼっちに…
まあその話はまたの機会にします。
で、前置きが長くなりましたが、今回は、「いじめはよくないよね」とか、そんな単純な話ではなくて、“なぜいじめられてしまうのか”、そして、“いじめを解決するにはどうすればいいのか”について、私の考えを少し述べておきます。
では、そもそも、なぜいじめられてしまうのか?
その端的な答えは、「みんなと違うから」です。
なぜなら、人は、他人より上、あるいは安定した地位を得るために、自分と異質なものを排除しようとするからです。
例えば、背が小さければ、「チビ」と罵られるでしょう。
顔が不細工であれば、「キモい」と言われるでしょう。
性格がぶりっ子であれば、「ウザい」と噂されるでしょう。
地方から引っ越してきて、方言でしゃべったらそれを馬鹿にされることもあるでしょう。
どんなに些細な違いでも、十二分にいじめの理由になります。
私がいじめられたのも、周りのみんなより弱虫であったから、また、周りより成長が早く、顔が更けていたり、毛深かったから、といった理由もあったのでしょう。
先生がいくらいじめっ子を注意してもまたいじめられてしまうのは、そういった、“根本的な原因”が改善されていないからです。
ですから、いじめを解決するには、いじめっ子を注意して終わるのではなく、“その子がなぜいじめられてしまったのか”を考え、その上で必要な対策を施すべきでしょう。
そして、もしその子に何か問題があるなら、周りが指摘してあげないと、子どもは自分では気づけません。
私も、この歳になるまで気付けなかったのですから…
先生やご両親がちゃんと指摘してあげれば、性格や言葉遣いなどは改善できるはずです。
とはいえ、身長や容姿などはどうしようもありませんね。
そういった場合には、“やられたときにやり返せるだけの力と度胸”をつけさせるためにも、空手なんかで体と心を鍛えさせるのがいいんじゃないかと思います。
これだと、「個性が大事だ」と言われそうですが、
「人にはそれぞれ個性があるから、いじめちゃだめだよ」
と説教を垂れて、いじめっ子がいじめをやめるでしょうか。
現実を見てください。
“いじめを解決するにはどうすればいいのか”の結論としては、
「その子にある問題を改善するか、それが無理な場合は、自衛の手段を与える事」
だと思います。
これは私の経験に基づく個人的な意見なので、異論はあるでしょうが、少なくとも、私がいじめられた原因は、100%私にありました。
当時はそれこそ○してやりたいほど恨んでいましたが、貴重な経験と、成長の機会をくれた彼らには、今ではむしろ感謝しています。責任を他者に求めているようでは、成長できませんからね。
そして、実はここからが本題だったりするのですが、このいじめの構造は、「現代日本社会の縮図」といえるのではないでしょうか。
引きこもりやニートなどの「社会不適合者」を、“いじめられっ子”、
「企業」を“いじめっ子”、
「国」を“先生”
とします。
普通の「社会人」は、“いじめを傍観しているその他大勢のクラスメート”と言ったところでしょうか。
引きこもりやニートがいじめられる、つまり“雇われない”のは、
企業側に責任があるわけではなくて、私たち社会不適合者の側に問題があるからなのです。
これは、「雇わないのがいじめだ」と言っているわけではないので、そこは勘違いしないでください。いじめは理不尽ですが、企業が私たち社会不適合者を雇用しないのは、何も理不尽なことではありません。
劣っている方より、普通の方を取るのは当然です。
そして先生、つまり国は頼りになりません。
もちろん、普通の社会人が救いの手を差し伸べなくてはならない理由もありません。
ここで、私たちが取るべき手段は二つ、
1.私たち自身の問題を改善し、企業に雇ってもらえるよう努力する
2.企業に雇われなくても生きていけるように自衛手段を講じる
このどちらかです。
1.私たち自身の問題を改善し、企業に雇ってもらえるよう努力する
要するに就活です。
多くの人は資格を取ったりしますよね。
しかし、その資格が何の役に立つのか、本当に分かっていればいいのですが、ただ「就活に役立ちそうだから」という理由だけで資格の勉強をしている場合が多いのではないでしょうか。
「将来就きたい仕事があって、そのためにこういう資格が必要で、そのために今勉強している。」という人ならいいのですが、「就活に役に立ちそうだし、なんかみんな取ってるから、とりあえず俺も取っておこうかなぁ…」みたいな人なら、やめておいた方がいいでしょう。
面接で、「なぜこの資格を取ったのですか?」と質問されたときに、“就活に役立ちそうだから”という理由だけで取った人は、どんなに答えを取り繕ったところで、見透かされるのが目に見えています。
もはや、みんなが取っているような資格を一つや二つ取ったところで、焼け石に水です。
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それに、今更いくら資格を取ったところで、手遅れな場合もあるでしょう。
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一度就職に失敗すると、多くの場合、そのまま悲惨な人生を送ることになります。
2.企業に雇われなくても生きていけるように自衛手段を講じる
企業に就職できない、あるいはできなかった場合、誰かが助けてくれるかというと、答えは勿論「ノー」です。いじめを傍観するクラスメートと同じく、世間一般の人々が私たちに手を差し伸べることはありません。
「世間はなんて冷たいんだろう…」
と思うかもしれませんが、そもそも彼らに私たちを救う義務はないのです。
なぜなら、今私やあなたが自分の現状に不満を持っていたとしても、その原因は私やあなた自身にあるからです。なので、他人に助けを期待するのは、間違っていると私は思います。
自己責任論についてはもっと色々書きたいのですが、長くなるのでまた今度にします。とにかく、新自由主義の現代においては、自分の身は自分で守るのが当たり前です。
では、私たちはどのようにして自分の身を守ればいいのでしょうか?
それは、“自分でビジネスをすること”です。
今更役に立つかもわからない資格を取るより、自分でビジネスを学び、自立できるだけのお金の稼ぎ方を学んだ方が生き残れる可能性は高いと言えます。
幸か不幸か、学校ではビジネス、すなわち自分でお金を稼ぐ方法を教えることはありません。
なので、今自分でビジネスを学んでいる人間は極限られています。
これは、あなたの周りの人間を見渡してみれば明らかなはずです。
そして、資金力のない個人でも可能なのが、私が学んでいるインターネットビジネスであり、まさに時代の最先端を行くものです。
就活したって勝ち目がないのが分かり切っているなら、他の手段で生き残るしかないでしょう?
だからこそ、私は無謀な就活に身を投じるより、自分でビジネスを始めた方がいいと思います。
バイト程度のお金ならすぐに稼げますが、自立して生活するレベルのお金を得るには、それなりに勉強が必要です。
もしあなたが就職できそうにない、あるいはできなかったなら、私と同じく、ビジネスを学ぶことをお勧めします。
それが、現代における最も有効な自衛手段だからです。
⇒自分の身は自分で守る、それがこの時代の常識
それと大事なのは、よく言われることですが、“コミュニケーション能力”ですね。これは就職するにしても、自分でビジネスをするにしても、絶対に欠かせない能力です。
引きこもりやニートは、この“コミュニケーション能力”が決定的に欠如している場合がほとんどです。
かく言う私も長年苦悩してきたのですが、苦手だからコミュニケーションを避けるのではなく、
“苦手だからこそ”コミュニケーションを取らなくてはいけないのです。
とはいえ、そんな難しく考えなくても、人と関わっていくうちに少しずつ慣れていくので大丈夫です。
コミュニケーションについても、また今度記事にしますね。
では、今回はこの辺で終わりにします。
また次回!
「お前、鏡見てみろよ」
タカです。
選挙終わりましたね。
まあどんな時代になろうと、私たちがやるべきことは、「自力で生きて行けるだけの能力を身につけること」です。
その力さえあればいつの時代でも生きていけます。
⇒自分の身は自分で守る、それがこの時代の常識
さて、前回では私の小中学生時代の話、それといじめ、自己責任の話などをしました。
⇒いじめられる側に100%の責任がある
今回は高校受験、そして大学進学までの話をしますね。
元々私は勉強が好きだったというより、他にやることがないので、小中学生時代は毎日ひたすら勉強していました。ゲームもやらないし、漫画もそんなに読まないし、遊戯王カードを少し集めていた位で趣味らしい趣味もなく、家でも学校でも、空いている時間はもっぱら勉強か読書にいそしんでいました。
また、日ごろから「将来は良い高校に入って、良い大学に入って、たくさん勉強して、エリート官僚になって、いじめっ子たちを見返してやるんだ。」と自分に言い聞かせ、いじめっ子への怒りや憎しみを学問への意欲に昇華していました。
なにより、偏差値の高い高校に入れば、いじめっ子たちともお別れできますしね。
(私の中学は普通の公立中学校だったので、頭の良い子はそんなにいませんでした。)
そして、日々の努力の甲斐あって無事第一志望の進学校(共学)に合格しました。
共学を選んだ理由は、「女の子と仲良くしたかったから」ではなく、「男子校はいじめがハードそうだと思ったから」です。
こうして、「高校でもまたいじめられるのではないか」という一抹の不安を抱えながらも、かつてのいじめっ子らと無事別れを告げ、背中の重荷を降ろしたような、せいせいした気分で中学校を卒業しました。
さて、「高校でも再びいじめられてしまうのではないか」という“不安”と、「新しい友達が作れるのではないか」という淡い“期待”とを胸に抱き、私の高校生活が幕を開けたのですが…
…初っ端からこけてしまいました。
私の高校では、入学後すぐに勉強合宿(新入生同士の親睦を深める意味もあるのでしょう)があるのですが、そこでクラスメートとなじめなかったのです。
行きのバスでみんなが早速携帯のメールアドレスを交換しているのに、私は誰にも声をかける事ができませんでした。結局最後までみんなと打ち解けることはできず、その後、私が所謂“ぼっち”となる大きなきっかけとなってしまいました。
その日から私の“ぼっちライフ”が始まったわけですが、進学校なだけあって民度が高いからなのか、ただ単に年齢が上がって知的になったからなのかは分かりませんが、当初心配していたように、誰かからいじめられるということは一切ありませんでした。
ここから先は、よく某掲示板に書いてあるような話なのですが、体育の授業で二人組を組んでくれる相手がいなかったり、休み時間に話相手がいなくて一人で勉強や読書をしたり、一人でお弁当を食べたり、一人で(ry
とにかく、何をするにも一人でした。
あと、ぼっちネタによく“便所飯”が挙げられますが、私はトイレのドアノブ、教室の床や廊下に少し触れただけでも手を洗うような潔癖症なので、普通に教室で食べましたね。
教室で食べるのが恥ずかしくて、屋上で食べようと思ったらそこには美少女がいて…
なんてことはエロゲの中だけの話です。
所詮は、教室の隅で一人寂しく本を読んでいるようなモブキャラでしかありませんでした。
こんないかにもぼっちらしい生活を送っていたわけですが、勿論友達を作ろうともしました。
なんとか会話の輪に入ろうとするのですが、何と言うか、どうしても越えられない壁というか、避けられているような感覚がありました。
それで、一向に距離が縮まらないのです。
例えば、移動教室で相手を先に待っていれば一緒に行ってくれるけど、私を待ってくれることはなかったり、二人きりのときは話すけど、他の誰かが来たらすぐそっちに行ってしまったり…
ただ単にまだ仲良くなれていないだけなのか…?
しかし、それにしてはいつまで経ってもよそよそしすぎる気もする…
で、結局最後までぼっちのままでしたとさ。
めでたしめでたし。
結局卒業するまで何がいけなかったのかよくわからなかったのですが、卒業してから気付きましたね。
「どおりで避けられるわけだ…」と。
それはとっても単純で、至極当たり前のことでした。
高校を卒業して春休みに入り、時間にゆとりができた頃のことです。
ふと鏡を見てみると、目の前には浮浪者が立っていました。
髭は伸びっぱなし、眉毛は繋がっているし、鼻毛は飛び出ている。
髪の毛は寝癖がひどく、まるで鳥の巣のよう。
その顔は、喩えて言うなら、無人島にいる漂流民のような顔でした。
「今まで俺はこんな顔で学校に通っていたのか…?どおりで避けられるわけだ…」
髭は剃るのが当たり前、
眉毛や鼻毛も整えるのが当たり前、
寝癖も直すのが当たり前。
「なんでもっと早く気付けなかったんだよぉ…」
「てか誰か教えてくれよぉ…」
「親も何か言うだろ普通…」
信じられませんでした。
なぜこんな当たり前のことができていなかったのか…?
穴があったら入ってそのまま消えてしまいたくなりました。
もしタイムマシンがあるならば、高校時代の自分に一言言ってやりたい…
「お前、鏡見てみろよ」
と。
もしあなたが、友達ができないとか、なんか避けられている気がする、あるいは直接的に「キモい」などと言われている場合、先ずは鏡を見ましょう。
ちゃんと髭は剃っていますか?
眉毛は?鼻毛は?寝癖は?
ちゃんと手入れしていますか?
不細工なのは仕方ないとしても、不潔なのは自分で改善できます。
私もまだ二十歳なのに三十路と間違われるような汚い顔ですが、ちゃんと髭剃って、眉毛鼻毛切って、寝癖直して、まともな服を着れば、少しは見れたようになります。
結局何が言いたいのかというと、
「常に原因は自分にある」
というです。
「今の自分が置かれている現状に不満があったとしても、その原因は100%自分にある。」
私は常にそう考えています。
なぜなら、他人に原因を求めても何も解決しないし、自分も成長しないからです。
自分の中にある問題を認め、改善することなしに前進はありえません。
さて、高校を卒業後、大学に進学したわけですが、高校受験と違って、大学受験は失敗でした。
中学までは勉強以外にやることがなかったのですが、高校に進学し、親にPCを買ってもらってからガラッと変わりました。
ネットがあればいくらでも暇潰しできますからね。
中学までほとんどゲームをしなかった反動のせいか、ネットで見つけたフリーゲームを片っぱしからダウンロードしてやりまくりました。
それと、ニコ動。
一日中見ていても飽きませんでしたね。
毎日夜遅くまでPCにかじりついてゲームとニコ動の往復でした。
学校は楽しくなかったけど、PCやってる時間は幸せだったかな…
そんな調子で志望校に受かるわけもなく、第三志望くらいの私立大学に進学することになりました。
こうして私の高校生活は幕を閉じました。
最後に、卒業式でPTAの会長さんが素敵な言葉を送ってくれたので、紹介します。
「一人で学ぶと書いて大学と読みます。皆さんは自主自立の精神を持って学んでください。」
とかそんな感じだったと思います。
“一人で学ぶと書いて大学”
―――友達なんていなくても、一人で全部単位取って意地でも卒業してやる。
その決意を胸に、高校を卒業、そして大学へ…
一番ぶっ○したくなる奴
タカです。
タイトルが意味不明ですが、読めばわかります(笑
さて、前回は大学進学まで話が進みました。
⇒「お前、鏡見てみろよ」
小学、中学といじめられ、高校ではぼっち…
そして今回は大学編です。
「大学デビュー()なんて夢は見ない。
“一人で学ぶと書いて大学と読む”
―――友達なんていなくても、一人で全部単位取って意地でも卒業してやる。」
その決意を胸に、いざ大学へ。
高校の時と違い、最初から期待はしませんでした。
ただ、高校と同じ轍を踏まないためにも、出来る限りのことはするつもりでした。
まず、当たり前ですが、“身だしなみを整えること”。
高校時代はまるで浮浪者のような顔で平然と登校していましたが、
大学にはちゃんと髭を剃り、無駄毛を処理し、寝癖も直してから行くようにしました。
そして何より、“自分から話しかける事”。
今度はちゃんと身だしなみも整えたし、高校の時みたいに避けられたりはしないはず…
期待してはいけないと分かっていても、心の内では期待します。
そして大学初日。
震災の影響で入学式は中止だったので、初日は新入生オリエンテーションか何かだったと思います。当然一緒に行く人はいないので、一人で受けたわけですが、そこでは特に誰にも話しかけずに終了…
(何やってんだ俺…これじゃまたぼっちじゃないか…)
そう思いながら会場の外に出ると、待っていたのは先輩方からのサークル勧誘の嵐。
(今はそれどころじゃないんだよ、早く誰かに話しかけないと…)
サークル勧誘の花道を足早に通り過ぎ、私は食堂に向かいました。
そこで誰かを誘って一緒にお昼を食べて、できれば友達に…
当時は本当に必至でしたね。
もう一人は嫌だ…
私の前に、食堂に向かって歩いている人がいたので、私は意を決してその人に話しかけました。
私「すみません…!あっ、あのっ…一緒にお昼食べませんか…?」
?「あ、いいですよ。」
噛み噛みでしたが、なんとか日本語が通じました。
(やった…一人飯回避…!)
数年ぶりに家族以外の人とお昼を食べました。
高校時代は家を出てから返ってくるまで一言も会話しないことも普通になっていたので、もう他人とまともに会話するのは無理かもしれないと思っていました。
もう本当に、それこそ涙が出る思いでした。
涙をこらえていたせいでしょうか、カレーを食べているはずなのに、なんだかしょっぱい味がしました。
食事をしながら色々話していたのですが、何と彼は私と同じクラス。
しかも、大学の付属高校から来た子で、大学について色々と知っているようでした。
私は右も左もわからなかったので、彼には本当にお世話になりました。
この一件で少しばかり自身を取り戻した私は、積極的に行動するようになります。
中学高校と剣道部だったので、剣道サークルに入ることにし、そこでもこちらから話しかけるようにしました。高校の時のように変に避けられることはなく、普通に会話の輪に入ることができました。
いつの間にか忘れてしまった“友達の作り方”を思い出したような感覚。
(これは、もしかしたらやり直せるかもしれない。)
予想に反して、大学生活は好調なスタートを切ることができました。
大学は高校までと違って色々とゆるいです。
出席も取らないし、席が決まっているわけでもありません。
高校までと違って、決められた教室に決められたクラスメートと一緒にいるということがないので、非常に居心地はいいですね。特に図書館の設備は充実していて、あとは布団さえあれば余裕で住めるレベルです(笑
私もようやく人並みの生活ができるようになり、毎日平和に過ごしました。高校までの地獄がうそのようで、まるで天国にいるような心地でした。
とはいえ、学生の質はあまりよくありません。
私は文系の大学に通っているのですが、基本的に周りの人は遊んでばかりいます。
授業はサボるのが当たり前だし、出ても携帯いじるか、寝るか、隣の人としゃべっています。
特に大教室の授業は学生同士のおしゃべりでうるさくなるので、まるで「動物園」のようです。
最前列に座る一部の真面目な学生を除いて、ほとんどの学生をそんな感じです。
そして、試験が近くなると、当然のように真面目な学生に助けを求めてきます。
「ねぇ、ノート見せてくれない?」
ってね。
私はそれが非常に気に食わない。
いつもすれ違った時にあいさつをするわけでもなく、いつも一緒に昼食を食べるわけでもないのに、こんな時だけ都合よく頼って来やがる。
確かに彼らは要領がいいのかもしれないけど、私はそういう奴は大嫌い、もう反吐が出る。
そりゃ、「ノート見せて」って言われたら見せますよ。
断ったら面倒なので。
でも内心では、
「こんな時だけ都合よく頼ってくんじゃねぇよ、ぶっ○すぞ…」
くらいのことは思ってますからね。
自分が授業サボってたのが悪いんだから、単位落とすのも自己責任でしょ。
“一人で学ぶと書いて大学と読む”
まあ結局友達はなんとかできましたけど、常にそういう意識は忘れません。
そして、大学を卒業してからもそれは変わりません。
私たちは、自立して生きていかなくてはならないのです。
困った時は誰かに頼ればいいだなんて、とんでもない。
なぜそんな楽観的に考えられるのか、私には理解できません。
昨今の雇用情勢を考えると、私のような学生が就職できる可能性は極めて低いと言えます。
いったい誰かが助けてくれるのか?
親は助けてくれるでしょうが、確実に自分より先に死にます。
親に寄生するのには、限界があります。
国も頼れません。
借金まみれの国にまともな支援は期待できません。
結局、自分の身は自分で守るしかないんです。
自分だけは何とか就職できる、誰かが助けてくれる、などと考えているなら、好きにしてください。
就職できる望みが薄いなら、自分でなんとかしましょう。
そのために、私は自分でビジネスを学んでいます。
⇒是非あなたも私と一緒にビジネスを学んでみませんか?
では、また。
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就職できなかったらどうするの?死ぬの?
こんにちは、タカです。
さて、前回は大学の話をしたわけですが、今回はその続きです。
⇒前回の記事はこちら『一番ぶっ○したくなる奴』
大学では小中学校時代のようにいじめられることもなく、高校時代のようにぼっちになることもなく、なんとか順応することができ、人生の中で最も平穏な生活が訪れました。強いて言えば、学生の質の低さが多少気になるくらいで、概ね好調な滑り出しでした。
「もし大学でもぼっちになっても、意地でも自力で単位取って卒業してやる」
と身構えて大学に来たせいか、すっかり拍子抜けしてしまったくらいです。
さて、大学生活はとりあえず順調なスタートだったわけですが、私生活の方も大きく変化しました。
実家からキャンパスまで遠かったので、私は大学近くのアパートで一人暮らしをすることにしました。最初はやはり不安だったのですが、暮らし始めて見ればこれがなかなか快適でした。
一人暮らしはとにかく自由です。
両親がいないので、何をやっても怒られることはありません。
実家にいた頃は、深夜までPCをやっていると必ず注意されたものでしたが、一人暮らしでは、誰も文句を言う人はいません。
私は毎日夜遅くまで、存分にPCをいじることができました。
ゲームにネットサーフィン、もうやりたい放題です。
私の生活は、徐々に堕落していきました。
家事や勉強の時間を削り、ゲームとネットサーフィンにひたすら時間をつぎ込みました。
特に長期休業期間はそれこそ一日中PCに張り付いてました。
気付けば、いつの間にか私は廃人になっていました。
授業には出るものの、家にいる時はほとんどPCしかしませんでした。
『大学は人生の夏休み』などと形容されることがありますが、私はその言葉に甘んじ、ゲームとネットサーフィンに可能な限りの時間を費やしました。
そんな堕落した生活を送りながらも、元来のクソ真面目な性格が幸いして、単位だけは全て取得し、無事二年生に進級しました。
一年生の頃は、就職のことなどほとんど考えたことはなかったのですが、二年生になると、周りの友人もにわかに就職の話をするようになってきました。
「エリート官僚になっていじめっ子を見返す」
という幼少時代の決意はあっけなく消え去り、
「どこでもいいから就職できればいいや…」
という軟弱な思考に変わっていました。
周りの友人たちは、公務員や教師を志望する人が多いのですが、私はもはや正社員にさえなれればあとはどうでもいいと思っていました。
私は社会学部なのですが、大学に進学した理由も、社会学を勉強したかったからというより、『大卒』という肩書きがほしかったからです。
将来どうするのか、真剣に考えなくてはいけない時期だと分かっていながらも、私はただゲームとネットサーフィンで時間を潰すばかりでした。
(こんな引きこもりがちでコミュ障な私を好き好んで雇う企業などあるのだろうか…)
そう危機感を感じながらも、
「まだ時間もあるし、なんとかなるだろう。それにもし就職できなければ、そのときは自○すればいい。」
という結論に至り、二年生になっても相変わらずゲームにネットサーフィン三昧の堕落した日々を送っていたのですが…
突如、人生の転機が訪れます。
いつも通りネットサーフィンをしていたところ、怪しげな動画に目が止まりました。
『ネットだけで月収何百万!!』
臆病で用心深い私は、こんな怪しげなものは普通見ないのですが、興味本位で見てみる事に。
ですが、これが運命の分かれ道、人生の転機でした。
「こんな世界があっただなんて、どうしてもっと早く気付けなかったんだろう…」
これが、私とインターネットビジネスとの出会いでした。
その日から必至にビジネスを学び、今に至ります。
とはいえ、まだ自立して生活できるレベルのお金を稼いでいるわけではありません。
せいぜい月に数万円程度です。
しかし、これは誰かに雇われて得たのではなく、完全に“自分の力だけで”得たお金です。
つまり、別に私たちは誰かに雇われなくても、お金を稼ぐことができるということです。
就職できないなら、自分でビジネスを起こせばいい。
それが可能なのが、インターネットを駆使した、最先端のビジネスです。
残念ながら、ビジネス、つまりお金を稼ぐ方法を自分で勉強している人はほとんどいません。
これは、そもそも日本の学校教育が就職を前提とした教育なので仕方ないことなのですが、ビジネスさえ学べば、就職せずとも生きていけます。
就職できなくても、死ぬ必要はありません。
就職できなければ、自分でビジネスを起こせばいい。
それだけの話です。
具体的に私が稼いだ方法はこちらのレポートにまとめてあるので、ご自由にご覧ください。
全て無料で見れます。
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ただ、このレポートを読んだだけではうまくいかないと思うので、こちらでサポートを行っています。
⇒人生リセットプロジェクト
私と同じような残念な人種の方、就職できそうにない、あるいはできずにニートになってしまった方、大歓迎です。
あなたの周りに自分でビジネスをしている人はほとんどいないはずですし、インターネットビジネスは時代の最先端です。
これさえ学べば、もう一度人生をやり直すことも可能です。
私はこれで、私の失われた二十年間の人生を取り戻します。
この世には未練がたっぷり残っているので(笑
それでは、あなたも後悔のない人生を送ってくださいね。
では、また。